最近、ミニマリストtori名義でTwitterを始めました。
今はもうあまり感じていないのですが、最初はとても「ミニマリスト」という言葉やコミュニティに不自由さを感じていました。
その理由を自分なりに考えてみたので、記事にします。
「ミニマリスト」という言葉の不自由さ
ミニマリストの定義
そもそも、「ミニマリスト」ってなんでしょうか?
Twitterを始めてから、たくさんのミニマリストの方の生活を自然と目にするようになりました。
ひとくちに「ミニマリスト」といっても、モノの数や生活形態、考え方は千差万別です。
インテリアや持ち物にこだわりのある方。節約重視の方。
食や家事にはあまり興味のない方。丁寧な暮らしを心がけている方。
一人暮らしか同居かでも雰囲気は違います。
ミニマリストって何だろう?とは、ずいぶん考えさせられました。
ミニマリストの定義は不明確
実は、ミニマリストの定義は明確に決まっていません。
ライフスタイルとしての「ミニマリズム」は、元々芸術・哲学方面の言葉で「最小限」という意味を持つ言葉が、シンプルなライフスタイルを表す言葉になり、そこに断捨離、効率化、自己啓発、丁寧な暮らし、節約、エコといった隣接コンテンツが混ざり合って、独自のニュアンスを持った言葉だと思います。
定義というのは、創設者や公式団体が定めたり、有力な研究者の著書から取られたりしますが、ミニマリストという概念は社会的にまだ新しく、不確定で、初出も定かではないので、はっきりしないようです。
定義がないと何が問題なのか?
「ミニマリスト」の正確な定義が存在しないこと、あるいは言葉が定まっていないことで、どんな不都合があるのでしょうか?
問題点① 多様化した現状をうまく言い表せない
ミニマリストは細分化しています。
「最小限(最少限)の生活」といっても、人として最少限のモノで生活するのか、自分にとっての最少限なのかすら曖昧なので、私のように嗜好品を多少残している人から、家具や日用品すらほとんど揃えない徹底したミニマリストまで、様々な人がいます。
また、モノを減らしている途中だけれど、ミニマリズム精神の中に生きている人も「ミニマリスト」といえます。
このように、「ミニマリスト」という言葉は多様性を帯びています。
ここでの問題の一つは、検索容易性がとても低いことです。
簡単に言うと、ミニマリストの部屋の画像を検索したいとき、何もないがらんどうの部屋を求める人と、ちょっとすっきりした普通の部屋を求める人が、同じ「ミニマリストの部屋」という単語で検索しなければならないのです。
もう一つの問題は、「自分がミニマリストである」と断定できない、自己認識の問題です。
ミニマリストとして何かをするときに、「その行為が肩書きにそぐわないのではないか?」という不安が常につきまとうということです。
私がこのブログで昔名乗っていた肩書きは「シンプリスト」でした。
二人暮らしで利便性もそこそこ求め自炊もする、そんな生活がミニマルであるとはいえないと自分で思っていたため、ミニマリストと名乗ることを躊躇していたのです。
結果的にシンプリストという言葉の使い方が微妙に間違っていると知り、また、ミニマリストの定義が広がりつつあるということで、ミニマリストを名乗って今に至りますが、今も内心「私はミニマリストなのか?」とこっそり思っています。
問題点② 「ミニマリスト」に余計な意味やイメージが含まれてしまう
そもそも、ミニマリストは語源的にも「モノが最少限の人」、それでいいはずなのです。
しかし現状、他の意味やストーリーを(他者によっても、自分によっても)付与されつつあります。
人生の質を高めるためのものであるとか、おしゃれな生き方であるとか、あるいは節約の手段であるとか、そういった他の要素を「ミニマリスト」に含めてしまうと、単に「モノが最少限の人」を指す言葉がなくなってしまい、不便になります。
例えば、「調理師」や「料理人」という言葉が高級料理店のシェフのみを指す言葉になってしまったとしたら、小さな食堂のコックさんは何と名乗ってよいか悩んでしまいます。これと同じことが起きるのです。
また、このように定義が固まっていない状態で余計なイメージがつくと、敷居が高くなり、新規参入してくる人が少なくなる可能性があります。
個人的には、イメージの固定化がなされる前に、早くシンプルな方の意味が定着すればいいなと思います。
ミニマリストのコミュニティの不自由さ
次に、ミニマリストのコミュニティにおいて私が感じた不自由さの話をします。
無意識の相互監視システム
これは単なる感覚にすぎませんが、タイムラインを眺めていると、「今日は何も捨てられなかった」「しばらく断捨離をサボっている」といった、他者を意識した発言、もっというと怯えのようなものが蔓延している気がしました。
最初は、みんな自らに課したルールを破ったことを後悔しているだけなのかなと思っていましたが、ある日自分にもそういう感情が生まれていることに気づきました。
久しぶりに服を買ったら、罪悪感みたいな感情が生まれて、こんな気持ちになりたくてミニマリストになったわけじゃないと思ったわ
— tori@ミニマリスト (@torisimplelife) June 23, 2019
生活を公開し始めたことで、他人に「ミニマリストのくせにモノ持ちすぎ」といわれるのを恐れる気持ちが芽生えていたんですよね。
これはミニマリストが「人として最少限のモノで生活する人」なのか「自分にとって最少限のモノで生活する人」なのか定まっていないせいでもありますが、こんなの好きにすればいいのに、なんとなく見えない規範のようなものができてしまっているのかもしれません。
他人に影響を与えたい人の存在
私は他のミニマリストさんのブログや動画は気になった時に見るくらいで、有名な方もあまり存じあげないのですが、教祖様的な存在をタイムラインから感じることがあります。
ミニマリズムというジャンルでそういった人が出てくるのが異様に思えます。
私なら、自分の内面と向き合い、自分がスッキリ暮らしたいだけの行為に、他人の言葉なんていらないです。
片付け方法を参考するとかならともかく、生き方を指針にしたり、崇めたり、言うことを全て肯定したり、指図を聞いたりとかはマジ勘弁!です。
とりわけミニマリズムを唯一の仕事にしてる人は、そりゃビジネスなら多少不便でも我慢するよなあと思ってしまうので、あまり参考にしません。全然リアルじゃないし、こっちが不便になっても当然責任は取ってくれないからです。
それから、例えば、「○○は必要ない」「まだ捨ててないんですか?」みたいな強い言葉を言ってくる人が苦手です。
おそらくはご本人が捨てて気持ちよかったものをよかれと思って言ってるだけなんでしょうが、そのアイテムを使う頻度も、大切に思う気持ちも、目指す生活形態も、インテリアやファッションのセンスも、人それぞれなわけです。
100人がゴミだと言っても、本人が捨てたくなければ捨てなくていいんです。
片づけが苦手な人には「これを捨ててみたら?」と提案するとか、「これを捨てたよ」と報告するに留めるとか、言い方はいくらでもあるんだから、わざわざ捨てろなんて強い言い方しなくてもいいのになあと思ってしまいます。
穿ちすぎでしょうか?
私は他人から影響を受けるのが苦痛なので、「捨てるべき!」と一言でも書かれていたら、自分の基準で捨てさせてもらいまーす(★ゝω・)b⌒☆と言って心を閉ざします(笑)
不自由さの改善に関して
ここまでつらつら書いてきましたが、「こんな不自由さがあるなあ」と思っただけで、改善する気概まではありません。
どれも今のところ深刻な問題ではないし、例えば多様性なんかには良い面もあるので、一概に改善すべきだとも思えないのです。
また、細分化・多様化した「ミニマリスト」を整理し、適切な言葉を新しく作り、あてはめていくのは困難です。
前提としてモノの多寡以外に、経済的イメージや生活感、生活形態、思想などでカテゴライズしていかなければなりませんが、人によって捉え方が違うこれらを正確に分けるのは、不可能に近いです。
新しい言葉を作るという流れは一応始まっていて、シンプルなデザインを好む人や簡素化した暮らしを好む人を指す「シンプリスト」、物事を最適化する人を指す「オプティマイザー」など、新しい言葉は少しずつ生まれてはいるものの、やや抽象的であり、意味も重複しています。(テレビ番組などで違う意味で使われているのも見ます。)
ただ、この問題については、ミニマリストを収益化して仕事にしてるインフルエンサーがそのうちやるんじゃないかなと思っています。
言葉を最初に作った人は影響力を持てるので、率先してやる人はいるでしょうね。
それから、コミュニティの問題も、どちらかというと自分の問題なので、気にしすぎな自分の性格を改善していこうかなと思っています。
まああまりに押し付けがましい方とは距離を置くかもしれませんが、最近は穏やかなフォロワーさん方に囲まれて気楽にやっています。